春日部市の歴史
今から約7000年前春日部は海でしたが、ゆっくりと海岸線が後退し現在の地形となっていきました。中世になると、領主春日部重行を中心とした春日部氏が台頭。これが現在の「春日部」の語源といわれています。江戸時代になると春日部は日光街道第四の宿場として栄えます。文字も「粕壁宿」という字が使われました。また、この時代の古利根川は江戸を結ぶ航路として重要な役割を果たし、粕壁宿は米麦の集積地だったために街道もかなりの賑わいを見せました。春日部市郷土資料館には当時の復元模型もあり、粕壁宿の様子や人々の暮らしに触れることができます。
明治元年粕壁宿は大宮県・浦和県を経て、明治4年に埼玉県に属し、その後市町村制施行によって明治22年埼玉県南埼玉郡粕壁町となり、明治32年には東武鉄道が開通、「粕壁駅(昭和24年春日部に改称)」が開設され、いよいよ近代化が進められるようになりました。
また、戦後の昭和29年町村合併促進法に基づき、春日部町と南埼玉郡豊春村、武里村、北葛飾郡幸松村・豊野村の1町4村が合併し「春日部市」が誕生しました。さらに平成17年、俗に言う「平成の大合併」により庄和町と合併し、現在の春日部市に至ります。 |
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粕壁宿の歴史
宿場町とは、幕府から宿駅業務を行うように指定された町のことです。人が担ぐ駕籠や輿、馬などしかなかった江戸時代では、武家や公家などが通行したり、荷物を継ぎ送るため、一定の距離ごとに人足と馬が用意されていました。
幕府の役人や諸大名・公家・日光山関係の役人らが通行するときには、無賃か民間より割安な公定賃銭で人馬を利用することができました。そのため、宿場町には問屋場、本陣、脇本陣など設けられ、おもな住民は人馬を負担する義務がありました。その見返りに、近世中期までには粕壁宿では地子(屋敷地にかかる年貢)一万坪分が免除され、定期市の開催が認められていました。
粕壁の町は日光に近い方が上手で、真言宗最勝院などがある旭町(旧寺町・横町、寺横町)がつきあたりにあり、道に沿って、上町、仲(中)町、新宿、三枚橋と続きます。江戸方面の宿の入り口に、市神である牛頭天王社(現八坂神社)が祀られています。 |
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伝統と歴史的文化
長年に渡り受け継がれている匠の技が用いられた春日部の特産品「桐箱」「押絵羽子板」「麦わら帽子」「桐箪笥」
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郷土資料館
春日部市域の歴史の展示、講演会や体験講座、古文書講座の開催、郷土資料の収集・保存と調査・研究などの活動を行っています。
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